隠すまでもなく、さりとて広めるほどでもなく

いずれはきちんとまとめたいのです。とりあえず半公開まで。

汝、疑うべし(1)

 教員モードでのぼくが、常々周囲の学生に説いていることがある。「疑問力をつけろ」というものだ。
 人は信じやすい生き物だ。ただ、何もかも信じてしまうやり方からは、イノベーションは生まれない。当たり前だと思っていることをあえて疑ってみる、新しい発見にはそれが不可欠だ。
 ゲームクリエイター(特に企画)志望者なら、大好きなゲームというのがあるはずで、それをもって面白さの完成を信じてしまうかもしれない。だがここで疑わなければならないのだ。「実はもっと面白くなるための方法があったんじゃないか。そして、これを作ったゲームデザイナーはそれを見つけられなかったという意味で失敗していたのではないか」――場合によっては、ゲームジャンルとかゲーム性とか、そういうものに関する疑問にもなる。「多くの人は、現時点でゲームの面白さは出尽くしたと思っている。だが、それは違うんじゃないだろうか」。こうしたものを持ち得ないのなら、その人はどこかで見たような企画しか作れない人になる。また、新しい技術でゲームの可能性が開いたときにも、それに対応することができない。こんなゲームデザイナーに、使いみちはない。
 とまあ、疑問力に関する一くさりを展開したわけだが、ぼくはゲーム企画を(主に)説く教員だから、具体的にはこんな話になったまで。この「疑問力」というキーワードは、さまざまなことに共通だ。例えばアートの場合、サロンの流儀への疑問を持たなければ印象派以降の美術は生まれなかったのだし。とはいえ、相性的にはやはりサイエンスだろう。科学のスタート地点には、ガリレオがいる。彼こそが、疑問力の典型例だ。
 これを「ガリレオの時代は頑迷な連中が多かった」なんて思ってはいけない。彼の周囲にいた同時代人も、同程度には頭が良かったのだ。知識体系というのは、いつの時代も完璧さのベールをまとっている。それぞれの時代の知性は、自分たちの信じる流儀で完成された世界観を持っていたのだ。四元素説や天動説だって、この世をきちんと理論化していた。そしてその時代の知性は、それらをより精緻なものにしていくことにエネルギーを費やしていたのであり、存在していなかったわけではない。
 こういう点では、現代も同じだ。科学を職業として選ぶことも可能だが、注意して観察&思考することで、存在する未解明の事実や現象を見つけ、その中から自分の研究対象にふさわしい有意義なものを選ぶ……大学院生がまずやらなければならないのはこういうことで、ここに失敗すると、科学者としての第一歩を踏み出すことができない。
 そして実際には、そういう専門家だけのものではない。知的存在として主体的に生きていくためには、批判的精神=疑う力は、欠かせない条件でもあるのだ。学者や評論家は知的生産者だが、たとえ彼らの提供する知見を受信する側の存在=知的消費者であったとしても、これは同じだ。相手の権威を前に無批判に受け入れたり、あるいは教条的に信じたりしたのでは、頭の“知的”は取らざるを得なくなる。陰謀論者にころっと騙される手合を嗤うその根拠が「偉い先生が間違いだって言っているから」では、単に笑い話が入り組んでいるだけになってしまう。

本の本質の本当(2)

 何のために本を買うのか。
 直接的には、使うためだ。読み、そして読んだ記録の代わりに置いておく(できればアクセス容易な形で)というのが、具体的な使い方となる。読むだけなら借りた本でもできるけど、それでは使えない。そんなわけで購入する。
 では、何のために使うのか。
 一連の作業をしながら気づいたのは、ぼくにとってのそれが「投資」になっていたことだった。現在および未来の自分にとって役立つと思うから購入する、それが当たり前になってしまっていたのだ。
 もちろん、子供の頃からそんなことを考えていたわけではない。青年期なんて、むしろ逆だ。役に立ちそうもないことに打ち込むのが学生のプライド。これが読書という側面でも発揮され、本来なりたい自分とかはあるのに、それと読書はかなり無関係だった。ちょうどその頃、ニューアカブームというのがあって、デリダとかガタリとか、難解さそれ自体を商品価値にしているような書き手が脚光を浴びていた。いわば、時代がこの種の無駄さを推奨してくれていたようなものだ。その後就職したものの、役所の一般事務職という、まあ「アマチュアであることにおいてプロ」であるような職業だったから、社会人になってからもそんなに違いはなかった。
 それがなんでこんなに堕落してしまったのは、20代の終盤にやってきた立場の変化だろう。
 バブルの余波もまだ残るその頃、ぼくは役人からゲーム屋(企画)に転身している。ゲームの企画職というのは、全てが含まれる職業だ。直接の制作物であるソフトウェアについてはもちろん、ファイナンスやマネジメントなどの製作の知識と、演出やドラマツルギーなど制作の知識、その両方を必要とする。そして、企画職の仕事の(理念的に)中核にあるのがゲームデザイン。これは実は世界(の一部)を設計するということなので、森羅万象ことごとくがその対象下に入る。つまり、この道に進んだ時点で、本来なら雑学教養であるべきものの全てが「仕入れ」になってしまったのだ。
 その時点では、単に角度が変わっただけに過ぎない。「役に立たないけど興味があるから何でも読む」だったのが、「役に立つから(&興味もあるし)何でも読む」への変化で、まあ民法で言う占有改定みたいなものだ。だけど、自分の立場の方が、変化していってしまった。“茹だったカエル”が出来上がるまでは、茹だりつつある生きたカエルの段階が長くある。だからどの時点かははっきりしないものの、企画屋時代に身に着けたプリンシパルを、「教員&士業」に更新された今においても使い続けてしまっていたのだ。
 一般論としては、これはこれで正しい考えの一つなのだろう。でも、実際にその先にあるのは虚しさだ。
 若さは可能性だ。だから、年齢を重ねるというのは、可能性をどんどん削られていってしまうということになる。すっかり大人になった人生において、「今そうでない何者かに、これからなる」可能性はとても低い。そしてなれたとしても、どうせ遠からず引退することになる。自分自身が投資不適格案件になってしまうことは、避けられない。
 これは悲しすぎる事実だ。やはり軌道修正を考えないと。
 でも、未読の文芸書は、今回の処分が始まった最初の段階で、まとめてゴミ出ししてしまった。

本の本質の本当

 以前に書いた自炊、これは今でも続いている。もちろん毎日やっていたわけじゃないが、数日のインターバルをとりつつも、やるときは連続して1m分ぐらい(そう、もう気分的にこの単位でないとふさわしくないのだ)やる、そんなことを続けているのだ。既に終わった分をファイル数として数えたら、軽く700を越えていた。それでも目標達成には程遠く、ゴールというのが見切れないままでいる。
 面倒な仕事をするときは考えないのがいちばんなのだが、これだけの時間「考えない」を続けるというのは難しいわけで、作業をしつつ「本の本質とは何だろうか」なんてことをつい考えてしまう。

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ノリ彦・トリ彦(終)

 というわけで、乗る、撮る、知る(識る)、操る。
 他には?
 無線。管制やカンパニーラジオなど、地上と飛行機との無線更新は結構あり、この傍受というのも、航空マニアにとっての一つのカテゴリーになっている。これは実はやっていない。興味がないわけじゃないが、レシーバーを買う敷居が高かった(この程度で諦めてしまうわけで、やはり偏執性が足りない)。また、模型も―飛ぶやつも飛ばないやつも―手を出していない。もちろん少年時代ならプラモデルぐらいは作ったことあるけど。

 実は「乗る」でやってみたいことがひとつある。いわゆるマイル修行だ。
 航空会社は、上級マイル会員の制度を持っている。1年間で一定以上の航空機利用をすると、お得意様クラブの会員になれるのだ。例えば、北米への出張が年3・4回ぐらいあって、その都度正規運賃でビジネスクラスのチケットをとっているようなエグゼクティブ。こういう人はぜひとも自社に囲い込みたいわけで、そのためにあるのが上級マイル会員だ。
 で、これを、エグゼクティブでもないくせに無理やり取得条件をとるということができる。安い国内線チケットでも、数をこなせば到達できるからだ。ただ、結構な数乗らなければならない。達成した人の書いた記事を読むと、ほとんど毎週のようにトンボ返りの飛行機旅行をしたりとか、場合によってはダブルヘッダーもあったりとかだ。あまりに辛い行為で、それでいつしか「修行」の名がついた。達成してしまえばもうやらなくてもいいあたりも、職業宗教家の修行と同じ。
 ゴールドカードがコモディティ化してしまった今、上級マイル会員のクレジットカードというのは、特別のステイタス感を持っているように見える。ただ、本当に魅力的なのかというと、結構怪しい。特典といっても、ビジネスクラス用のラウンジやチェックインカウンターを使えるとか、搭乗や預け荷物の返却で優先してもらえるとか、空席があればプレミアムエコノミーにアップグレードしてもらえるとか。そう、どれもエコノミークラスで乗ることが前提になっている。ビジネスクラスのチケット持ってる人なら、当たり前のことばかりなのだ。そもそもビジネスクラスラウンジが魅力的なのは飛行機に乗るときだけで、いちばんそれを必要とするだろうマイル修行の最中は、当然ながらまだ取得前だから、使うことなんてできない。
 まあ、だからこその、魅力だね。航空っていうのは生まれつき合理的で、例えば乗り鉄の「全国各駅停車一筆書き」みたいな非合理な旅がしづらい。そんな環境下にあって、あきらかに非合理なのがこのマイル修行だ。単に「コンプリートした!」ってだけでステイタス感が上がる気がするし、実際それを達成している同好の士に対して引け目みたいなものを感じてしまうのだ。もしJRが「乗り鉄認定証」みたいなものを発行していたら、テツなら欲しくなるでしょ? 空の場合、そういうのがあるんですよ!

 鉄道マニアは、その属性に応じ、さまざまな名前で呼ばれている。列車での旅行を追求する「乗り鉄」、写真に収めようとする「撮り鉄」、時刻表をこよなく愛する「筋(スジ)鉄」、車両部品とか列車のネームプレートなどをコレクションする「蒐集鉄」。また廃止される列車や車両などに偏愛を示し、最終日に駅に集まって大騒ぎをする連中もいて、彼らは「葬式鉄」なんて呼ばれている。
 飛行機の場合、こういういい名称がない。そこで考えたのが、本シリーズのタイトル。より明確にするのなら「乗りヒコ・撮りヒコ」なのだけど、こっちのが名前っぽくていいかな、と。同じ流れで、シミュレータならシム彦蒐集はタメ彦無線がエア彦プラモデルならカタ彦ってあたりか。飛ばせる飛行機模型だったらどうかな? 操縦するからクリ彦? 飛ばすからバシ彦? それともプラモは無視してモケ彦? だんだん無理が出てきてしまう。でもこの“彦”シリーズ、基本的には悪くないと思う。
 一つ問題があるとすれば、愛称かな。鉄道マニアには、「てっちゃん」(アクセントは太字)という、親しみと冷やかしを込めた愛称がある。罵る場合は「テツ」。愛憎どちらも特別の呼び方があるわけだ。ぼくの提唱する「n彦」だと、それが展開しづらい。
 誰かもう使ってるのかな? まだの場合、どうぞ自由利用を。先行者権利は主張しませんので。

 

ノリ彦・トリ彦(2)

 16/32ビットPCの時代、新しいマシンを買うごとに「マイクロソフト・フライトシミュレータ」(以下MSFS)を買っていた。最初は、バージョン4がPC98版として発売されたときだ。その後、メイン機をMac(LC475)に替えたときは、Mac版を購入した。実はMacで最初に買ったソフトで、また初めての英語オンリーソフトだったりもする。
 ちなみに当時のMSFSの画面は、今では信じられないほどにシンプルだった。山とか雲とか、みんな超ローポリ。地上はというと、主要なビルのみがポリゴンで、後は道が描いてある程度だった。橋は、平板ポリゴンとワイヤーの組み合わせ、タワーはワイヤーだけ。自由の女神なんて平板の女神像の裏にワイヤーでつっかえ棒が描かれていたほどだ《ホントだぞ!》。主な空港はそれっぽく滑走路や誘導路がマッピングされていたけど、マイナーな空港だと線画だけ。地面にチョークで滑走路書いているようなものだった。それでも熱中して飛んでいたのだ。まあ、あの時代、ユーザーに逞しい想像力を求めていたのは、このソフトに限ったことではないのだが。
 やがてソフトのほうがバージョンアップし、航空写真も使ったリアル(笑)な表現になった。ぼくは、いても立ってもいられなくなり、メインのデスクトップ機をPC/AT機(エプソンダイレクトエンデバー)に替えてしまった。

 コンバット系に興味がないわけじゃない。そもそもMSFSよりも前に、「エアーコンバット」(byシステムソフト)をプレイしていたし、Macでは「F/A-18Honet」でさんざん飛んだし。それでも、MSFS、あるいは「X-Plane」のような撃たないフライトに、結局は戻っていってしまう。
 コンバット系のフライト・ゲームは、ゲームデザインが難しい。ゲーム性を追求すると、一人称シューティングに傾いてしまうのだ。簡単に飛べて、飛行とか弾薬とか気にすることなく戦いに専念できて、簡単に帰ってこられる、そんなゲームになってしまう。ユーザー層の厚さから、マーケティング的にはそっちが正解となり、結局は駆逐されてしまう運命にある。今「エアーコンバット」の名を出したけど、若い人なら「えー? それって『エースコンバット』の間違いじゃないの?」なんて思うだろう。
 でも、それじゃ満足できないんだよね。空戦の本質というのは、一言で言えばマネジメント。ドッグファイトに求められるのは勇猛果敢さではなくて、エネルギーをどうマネジメントするかの技術だ。相手に対して優位に立つためには、動けるエネルギーを持っていなければならず、無駄な機動はそれを消耗し、自らを不利な地位に導いてしまうのだ。そして武装もまたマネジメントの対象だ。パイロットに与えられているのは、4発のAMRAAMと2発のサイドワインダー、そして連射15秒で撃ち尽くす20ミリ弾、これで全て(もちろん機種によって違いますけどね)。熱いハートのまま撃ったのでは、あっという間に丸腰になってしまう。こういう制約下で飛ぶのが戦闘機乗りだってことを、探求的に知識を漁った人間なら知っている。それを経験したいからシムフライトをするのに、「こんなの煩わしいでしょ?」なんて言いながら勝手に省略されたのでは、付き合いきれないのだ。

 MSFSは、その後もPCの3D描画力の向上に合わせて小刻みにバージョンアップしていたが、ぼくは追いかけ続けることができなかった。WindowsがVISAになった頃、持っていた大型ジョイスティック「サイドワインダー・プロ」への対応がなくなってしまったのだ(マイクロソフト製だっていうのに、やんなっちゃうね!)。その結果、ちょうど出てきた「X」の購入動機が萎んでしまった。
 で、MSFSもここで打ち止めになる。その後マシンは買い替えたけど、対応させるべきバージョンが存在せず、シムフライト歴もしばし停止だ。
 これが変わったのは、最近のこと。新バージョンがようやく発売されたのだ。購入後数年経っていたぼくのマシン環境はとても飛ばせるようなものではなく、一時は諦めもしたのだが、結局グラボを新しく買い替えてしまった。なんだか、せっかくぼくのために作ってくれたのに、無視しちゃ申し訳ないような気がしてしまったのだな。GPUはRTX2060。約3万円と、最新ゲーム機よりも高価だが、これはしかたない。また、操縦桿までは手が出せず、フルキーボード+XBOX仕様のジョイパッドで飛んでいる。

ノリ彦・トリ彦(1)

 鉄道マニアはときどき理由もなく鉄道の旅をしたくなるという。その結果行う、乗ること自体が目的の長距離鉄道移動を「鉄分補給」と自称したりする。ぼくは、鉄道にはさほど興味がないが、それでもときどき“空分”の不足を感じる。飛べない期間が長引くと、だんだんウズウズしてくるのだ。緊急宣言明けで浮かれたわけじゃないが、最近熊本まで往復、ようやく補給できて、安心している。
 そんなわけで、実はそれなりに飛行機好きだ。マニアと名乗ってもいいほどの偏執性がないから、単に「好き」でしかないけど。

 趣味欄に「飛行機」と書けるだろうか。
 若い頃によく行っていたレンタルビデオ屋には、セスナの写真が飾ってあった。オーナー兼店長のおじさんに聞いたら、趣味で共同所有してる機体なのだとか。やはりこういう人でないと、おこがましいような気がする。セスナまたはグライダー。そうでなくても、せめてULP。ハンググライダーやパラグライダーじゃだめ…ってな感じかな(劣っているということではなく、そもそもスポーツであり、カテゴリー的に別次元な気がするので。野球部員を“マニア”とは呼ばないでしょ?)
 でも、どうだろうか。「趣味:鉄道」の人は、別に運転しているわけじゃない(全くいないわけじゃないけど。自宅敷地にごく短い線路引いて放出品の機関車走らせてる人ってのを、テレビで見たことがある)。たとえ操縦していなくても、名乗れる道はあるかもしれない。

 実際の自分は、飛行機というカテゴリーで何をしているのだろうか。行動としては、「乗る」と「撮る」。もちろん前者は客席専門だし、後者にしても地元空港&飛行場でごくたまにやるだけだ。ただ、これで語りきれるわけじゃない。
 まず、知識の探求。軍用機/民間機足せば、飛行機というのはとても多い。1冊につき1種類だけの軍用機を特集するムック「世界の傑作機」シリーズも、No.200にほぼ達している。傑作じゃない飛行機だってたくさんあるから、実態としてはもっとあるわけだ。民間機に限った年鑑でも、かなりの数が載っている。そうした飛行機には、様々な技術が盛り込まれている。そして現用機の場合、意味もなくやっていることというのはない。旅客機の翼端がピンと跳ね上げられているのも、かっこいいからそうしているわけではないのだ。こういう「知るべきこと」に、飛行機の世界は溢れている。
 また、空港設備や航空管制など、航空を支えるシステムというのも、興味深い対象だ。さらには航空会社とか。昭和の終わり頃からこんにちに至るまで、これほど再編の多い業界もないだろう。国際線も含めれば、カオス度はさらに高まる。会社の成り立ちにカラーリング、そして就航路線やアライアンス。こんなことだって一筋縄ではいかないのだ。このへんはミリタリーも同じで、空軍基地や空母に始まり、各国空軍の成り立ちとか体制とか、システム面での興味の対象も、際限なく存在している。
 このように探求すべき知識は多く、ひとつを知れば次の疑問への手がかりも得られる、そういう体系になっている。乗るのも撮るのも、いわばそれに対するフィールドワークといっていいだろう。
 そして今の時代を象徴する「やっていること」がある。フライトシミュレータだ。

大人の国から実況

 今日はブログをアップするぞー!…と意気込んでマクドナルドに入り、チーズバーガーとコーヒーを前にした今、戸惑っている。アップ主体である文章が、なかったからだ。それはDropbox上で更新されていて、ネットで繋がった手元のノーパソからコピー&ペーストではてなブログ上の記事になるはずだったのだ。もともとぼくは、文章を書き飛ばすのが苦手だ。さらにいうと、ブログサイトのインターフェイスも。だから、「秀丸エディタ」で、じっくり時間をかけて、記事を完成させる。だがファイルは古いままだ。
 「おのれ、Dropbox!」なんて怒るほどアホではない。ただ、テキストファイルをセーブし忘れるほどにはアホだった。元ファイルが消えていないことを、今は祈るだけだ。
 で、問題はここで過ごすはずだった時間。ファイルが揮発しているかどうかはまだわからないが、ここでやるはずだった作業はすっかり揮発してしまった。それでも目の前にはコーヒーが残っている。
 ってなもんで、結局こうして泣き言を書き綴る、そんな時間に使ったわけだね。