隠すまでもなく、さりとて広めるほどでもなく

いずれはきちんとまとめたいのです。とりあえず半公開まで。

本の本質の本当(2)

 何のために本を買うのか。
 直接的には、使うためだ。読み、そして読んだ記録の代わりに置いておく(できればアクセス容易な形で)というのが、具体的な使い方となる。読むだけなら借りた本でもできるけど、それでは使えない。そんなわけで購入する。
 では、何のために使うのか。
 一連の作業をしながら気づいたのは、ぼくにとってのそれが「投資」になっていたことだった。現在および未来の自分にとって役立つと思うから購入する、それが当たり前になってしまっていたのだ。
 もちろん、子供の頃からそんなことを考えていたわけではない。青年期なんて、むしろ逆だ。役に立ちそうもないことに打ち込むのが学生のプライド。これが読書という側面でも発揮され、本来なりたい自分とかはあるのに、それと読書はかなり無関係だった。ちょうどその頃、ニューアカブームというのがあって、デリダとかガタリとか、難解さそれ自体を商品価値にしているような書き手が脚光を浴びていた。いわば、時代がこの種の無駄さを推奨してくれていたようなものだ。その後就職したものの、役所の一般事務職という、まあ「アマチュアであることにおいてプロ」であるような職業だったから、社会人になってからもそんなに違いはなかった。
 それがなんでこんなに堕落してしまったのは、20代の終盤にやってきた立場の変化だろう。
 バブルの余波もまだ残るその頃、ぼくは役人からゲーム屋(企画)に転身している。ゲームの企画職というのは、全てが含まれる職業だ。直接の制作物であるソフトウェアについてはもちろん、ファイナンスやマネジメントなどの製作の知識と、演出やドラマツルギーなど制作の知識、その両方を必要とする。そして、企画職の仕事の(理念的に)中核にあるのがゲームデザイン。これは実は世界(の一部)を設計するということなので、森羅万象ことごとくがその対象下に入る。つまり、この道に進んだ時点で、本来なら雑学教養であるべきものの全てが「仕入れ」になってしまったのだ。
 その時点では、単に角度が変わっただけに過ぎない。「役に立たないけど興味があるから何でも読む」だったのが、「役に立つから(&興味もあるし)何でも読む」への変化で、まあ民法で言う占有改定みたいなものだ。だけど、自分の立場の方が、変化していってしまった。“茹だったカエル”が出来上がるまでは、茹だりつつある生きたカエルの段階が長くある。だからどの時点かははっきりしないものの、企画屋時代に身に着けたプリンシパルを、「教員&士業」に更新された今においても使い続けてしまっていたのだ。
 一般論としては、これはこれで正しい考えの一つなのだろう。でも、実際にその先にあるのは虚しさだ。
 若さは可能性だ。だから、年齢を重ねるというのは、可能性をどんどん削られていってしまうということになる。すっかり大人になった人生において、「今そうでない何者かに、これからなる」可能性はとても低い。そしてなれたとしても、どうせ遠からず引退することになる。自分自身が投資不適格案件になってしまうことは、避けられない。
 これは悲しすぎる事実だ。やはり軌道修正を考えないと。
 でも、未読の文芸書は、今回の処分が始まった最初の段階で、まとめてゴミ出ししてしまった。